今日 10月26日(月)も良い日でありますように。
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☆今日の聖書物語
ルカによる福音 13:10-17
安息日に、ある会堂で教えておられると、
そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。
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☆今日の『み言葉』
ルカによる福音 13:10-17
英国に留学した人に聞いたことがあります。 たまたま下宿した家庭が熱心なユダヤ教徒の家だったそうです。英国とドイツは料理が美味しくないことで有名ですが、厨房の仕事さえも労働とみなして禁じていたその家庭の安息日の食事は悲惨だったとか。
今日の福音にでてくる会堂長の安息日理解も似たようなもの。安息日は何歩以上歩いてはいけない、厨房の仕事は労働にあたるなどの禁止規定で頭の中はいっぱいだったのでしょう。
その会堂長の言動に対して、イエスはいいます。「偽善者たちよ。18年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘たるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。ある聖書学者は、この<安息日であっても>という言葉は<安息日においてこそ>と訳すことができるといいます。「安息日においてこそ、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。この<べき>というのは、道徳律がそのように強いるという意味ではありません。原文はむしろ、「必ずそうなるはず」という意味だそうです。
主イエスはおかしいと思っておられた。当然あるべきことが起こっていないことをいぶかっておられた。むしろ安息日だからこそ、この女性の長年の痛みや辛さが顧みられてしかるべきではなかったかと。
安息日だから、その日の料理にふだんよりも心がこもっていたら、ユダヤ教の家庭でのホームステイも印象が異なっていたかもしれません。
M.Joseph
http://www.donboscojp.org/sdblogos/C4_310.htm#239
より転載
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◇ October 26, 2015 Daily Mass Reading
http://ccc.usccb.org/cccradio/NABPodcasts/15_10_26.mp3
◇ Daily Readings October 26, 2015
http://www.usccb.org/bible/readings/102615.cfm
†主の平安
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2015年10月26日
Kyohno Seisho Monogatari (s)
posted by marion at 11:30| 千葉 ☀| 本/雑誌
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