2018年05月22日

 Kyohno Seisho Monogatari (s)

今日も一日良い日でありますように!

(聖リタ −カシャ− 修道女 )

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☆今日の聖書物語 *

マルコによる福音 9:30-37

 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。

 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。

 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。

 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。

 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。

 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。

 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

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☆今日の『み言葉』

マルコによる福音 9:30-37

 「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 (マルコ9章37節)

 子どもを受け入れること・・・それは容易なことではありません。子どもはエネルギーにあふれ、素直な面もあれば、どんどん変化や成長していくものでもあり、壊れやすい器のような存在でもあります。そんな子どもたちに自分がどう向き合い、つきあうかが「受け入れる」際には求められるわけです。子どもは自分が接する大人が本物かどうか見抜く目を持っています。ですから、子どもを受け入れることは結局は自分自身の姿勢、ありのままの自分が問われることになります。だからこそイエスは「子どもを受け入れることはわたしを受け入れること」だと言われているのでしょう。

 さて、私たちはどのように自分の身近にいる子どもと向き合っているでしょうか?

rainbow

http://www.donboscojp.org/sdblogos/C4_173.htm#70
より転載

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◇ May 22, 2018 Daily Mass Reading
http://ccc.usccb.org/cccradio/NABPodcasts/18_05_22.mp3

◇ Daily Readings May 22, 2018
http://www.usccb.org/bible/readings/052218.cfm

†主の平安

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posted by marion at 11:31| 千葉 | 本/雑誌 | 更新情報をチェックする