良い一日を過ごしましょう!
年間第25水曜日
聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭(記)
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<今日の聖書物語 *>
(ルカによる福音 9:1-6)
9:1
それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。
9:2
また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして
9:3
言われた、「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。
9:4
また、どこかの家にはいったら、そこに留まっておれ。そしてそこから出かけることにしなさい。
9:5
だれもあなたがたを迎えるものがいなかったら、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足からちりを払い落しなさい」。
9:6
弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。
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<今日の『み言葉』>
み言葉の朗読を聴こう!(新共同訳)
(ルカによる福音 9:1-6
http://www.donboscojp.org/sdblogos/images/sc4_331_1.mp3
み言葉について
(ルカによる福音 9:1-6)
「......何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」この逆説でもって、イエスは宣教師の姿を描き、宣教活動の根本を教えて下さっているのではないでしょうか。
宣教師は、おのずと、自分の持っているものを分かち合い、培ってきた信念や、価値観や信仰を伝えていくのです。
言い換えれば、自分を与えているのです。
それはすばらしく、高尚なことですが、諸刃の剣のように、あぶないことでもあります。
その危険というのは“自分を伝える”ということです。
人々は宣教師の私ではなく、キリストを必要としているのです。
したがって、私と私のものすべては、キリストを伝え、人をキリストに出会わせる道具にすぎないということです。
自分が道具だという意識の度合いに応じて、神が働かれ、人がキリストに出会い、”神の国が近づいた“というキリストの言葉が実現するのです。
ロロピアナ
http://www.donboscojp.org/sdblogos/C4_282.htm#331
より転載
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(エズラ記 9:5-9)
9:5
夕の供え物の時になって、わたしは断食から立ちあがり、着物と上着を裂いたまま、ひざをかがめて、わが神、主にむかって手をさし伸べて、
9:6
言った、
「わが神よ、わたしはあなたにむかって顔を上げるのを恥じて、赤面します。われわれの不義は積って頭よりも高くなり、われわれのとがは重なって天に達したからです。
9:7
われわれの先祖の日から今日まで、われわれは大いなるとがを負い、われわれの不義によって、われわれとわれわれの王たち、および祭司たちは国々の王たちの手にわたされ、つるぎにかけられ、捕え行かれ、かすめられ、恥をこうむりました。今日のとおりです。
9:8
ところがいま、われわれの神、主は、しばし恵みを施して、のがれ残るべき者をわれわれのうちにおき、その聖所のうちに確かなよりどころを与え、こうしてわれわれの神はわれわれの目を明らかにし、われわれをその奴隷のうちにあって、少しく生き返らせられました。
9:9
われわれは奴隷の身でありますが、その奴隷たる時にも神はわれわれを見捨てられず、かえってペルシャ王たちの目の前でいつくしみを施して、われわれを生き返らせ、われわれの神の宮を建てさせ、その破壊をつくろわせ、ユダとエルサレムでわれわれに保護を与えられました。
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†主の平安
☆ (BGM) Abiding Radio Instrumental
https://www.abidingradio.org/radio/instrumental
* 口語訳聖書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
☆ 日本聖書協会 聖書本文検索
http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html
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2023年09月27日
Kyohno Seisho Monogatari
posted by marion at 00:32| 千葉 ☁| 本/雑誌
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