良い一日を過ごしましょう!
年間第25土曜日
聖ヒエロニモ司祭教会博士(記)
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<今日の聖書物語 *>
(ルカによる福音 9:43b-45)
みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、
「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。
しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。
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<今日の『み言葉』>
み言葉の朗読を聴こう!(新共同訳)
(ルカによる福音 9:43b-45)
http://www.donboscojp.org/sdblogos/images/sc4_84_1.mp3
み言葉について
(ルカによる福音 9:43b-45)
イエス様から受難の予告を聞かされた弟子たちは、「怖くてその言葉について尋ねられなかった。」とあります。
理解出来なかったこと以上に、真実を知る恐ろしさを感じていたからでしょう。
理解できない「何か」、もしくは理解したい「何か」があると、人は心に未知なる物・事に対して期待と不安を抱くものです。
またそれが自分にとって受け入れがたいものだと察する時には恐れを感じ、自然と拒否しようと目をそらすものです。
「真実を恐れる必要はない」はずなのですが、頭と心は必ずしも同じ方向へと進んでいくものではありません。
自分を偽るようになりますが、これが人の正直な反応でもあるわけです。
しかし私たちは嘘、偽りが真実から目を背けさせ、真実の光を避けて闇の中へと人を誘い、迷いと混乱のそれこそ迷宮へと導いていくことを経験で知っています。
いつも真実から目をさらさず、真実を受け止め、受け入れる勇気が欲しいものです。
「受難の予告」がありましたが、「復活の予告」もあるのです。(マルコ福音9:30-32参照)
勇気を持って真実を受け取り、また真実を語るとき、不安、心配、恐れもありますが、神様の祝福もあるのです。
mickey sdb
http://www.donboscojp.org/sdblogos/C4_285.htm#334
より転載
(マルコ福音 9:30-32 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。)
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†主の平安
☆ (BGM) Abiding Radio Instrumental
https://www.abidingradio.org/radio/instrumental
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2023年09月30日
Kyohno Seisho Monogatari (s)
posted by marion at 11:32| 千葉 ☁| 本/雑誌
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