良い一日を過ごしましょう!
年間第4水曜日
聖ヨハネ:ボスコ司祭(記)
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<今日の聖書物語 *>
(マルコによる福音 6:1-6)
イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。
それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
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<今日の『み言葉』>
み言葉の朗読を聴こう!(新共同訳)
(マルコによる福音 6:1-6)
http://www.donboscojp.org/sdblogos/images/sc4_53_1.mp3
み言葉について
(マルコによる福音 6:1-6)
今日の福音に描かれているのは、イエスの真の姿を見ることのできない故郷の人たちです。
彼らはイエスの言葉を直接聞いていますし、そのわざも見ています。
それでもそこに神のわざを見ることができなかったのです。
それは目が曇っていたから、別な言い方をすれば、すごく汚れたメガネをかけているような状態でイエスを見ていたからです。
イエスを直接見ていた彼らがそこに神様を見ることができなかったということは、直接見ていない私たちは、よほど意識して自分の汚れたメガネを外さなければ、神を見ることも信じることもできないと思います。
偏見、先入観、固定観念、自分の経験を絶対視すること・・・、これらははじめから相手を裁いてしまっているめがねです。
それらのめがねを取り外さない限り、私たちはイエスと出会うことができません。
逆に言えば、目の前の人と真摯に関わり、相手の身になって思いやりの心を持って接する時、私たちはそこでイエスに出会うことができるのです。
こうして私たちは、自分の汚れたメガネをはずしていけばいくほど、イエスの真の姿が見えてきます。
Tsujiie
http://www.donboscojp.org/sdblogos/C4_156.htm#53
より転載
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†主の平安
☆ (BGM) Abiding Radio Instrumental
https://www.abidingradio.org/radio/instrumental
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2024年01月31日
Kyohno Seisho Monogatari (s)
posted by marion at 11:32| 千葉 ☁| 本/雑誌
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