良い一日を過ごしましょう!
年間第17金曜日
(聖エウセビオ −ベルチェリ− 司教)
(聖ペトロ・ユリアノ:エイマール司祭)
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<今日の聖書物語 *>
(マタイによる福音 13:54-58)
そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
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<今日の『み言葉』>
み言葉について
(マタイによる福音 13:54-58)
この人は大工の息子ではないか
今日の福音で、私たちはまたもや、拒絶の場面に遭遇します。
イエスは故郷の村に帰っておられます。
昔からの友人や同郷の人々と一緒です。
きっと、その日を待ちわびておられたことでしょう。
主のすべてのすばらしいみ業、人々への神の愛、神の力を、皆と分かち合いたいと心の底から願っておられたでしょう。
しかし、人々の信仰のなさにイエスは驚きます。
イエスは、故郷で何もおできになりませんでした。
イエスに笑顔を向ける人はいませんでした!
どれほどショックだったことでしょう。
もちろん、人々の拒絶はこの時だけではありません。
この反応は、小さな村だけのものではありません。
神が遣わされた方への、イスラエル全体の反応です。
人々は、自分たちの狭い世界を超えた先を見ることができず、耳にしたことに憤慨します。
彼らは狭量な心で見たことだけを信じます。
すなわち、目の前にいるのは、才能に豊かに恵まれた青年ですが、あくまでも大工の息子にすぎないのです!
人々はその先を見ることができません。
すなわち、神の子を。彼らは受け入れることができません。
神が人となること、神が貧しく、素朴で謙遜な生活を送ることなど、根本的に除外されます。
ナザレの人々は、神がどのように行動され、考えられ、生活されるか、神ご自身よりも自分たちのほうが知っていると思ったようです。
彼らを盲目にするのは、「私はわかっている」というメンタリティーです!
パウロとなる前のサウロはこのような姿勢でした。
自分の正しさだけを信じ、自分と違う人々、考え方の違う人々を迫害せずにはいられませんでした。
私はどうでしょうか? 私たちはそのような姿勢で生きてはいないでしょうか?
イエスよ、私自身から、私自身の正しさ、偏見から私を自由にしてください!
A.C
http://www.donboscojp.org/sdblogos/C4_236.htm#206
より転載
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†主の平安
☆ (BGM) Abiding Radio Instrumental
https://www.abidingradio.org/radio/instrumental
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2024年08月02日
Kyohno Seisho Monogatari (s)
posted by marion at 11:32| 千葉 ☀| 本/雑誌
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